新潟大学芸能科ー「裏日本の芸大」

「〈GUN〉のメンバーは、そのほとんどが新潟大学芸能科の出身であるが、中心メンバーである前山忠氏(1944年、新潟県中頸城郡三和村[現・上越市三和区]生まれ)と堀川紀夫氏(1945年、新潟県中頸城郡清里村[現・上越市清里区]生まれ)は、いずれも新潟大学進学以前は新潟県立高田高等学校の美術部に所属しており、高校時代はいずれも一水会所属の画家・村山陽氏(1931年生まれ)の指導を受けていた。地元の美術の教員になることを目指していた前山・堀川両氏にとっては、新潟大学教育学部高田分校芸能科への進学というのは至極当然の進学先であり、特に農家の長男であった前山氏にとっては、東京や関西の美術大学に進学するという選択肢はそもそもなかった。」

高晟凵uグループ〈GUN〉がデビューするまでー日本地方都市の「前衛」」(『GUN 新潟に前衛があった頃』2012年、新潟県立近代美術館所収)
「越後というところは不毛がかえって理想を養うのかな」とか「たしかに、作品を売ることをとおして鑑賞層につながりをもつことができない多くの画家には、いつもひとりよがりの観念性がつきまとっている」とかも面白いな。(針生一郎「因襲にもたれるなー横山操へー」『芸術新潮』1960年8月号所収)
横山操
「このごろよ、富士山なんかやめてくれという画商も出てきたね。だけど、そういうのに限って本当は富士山欲しいんだ。ぼくは全部知ってて、知らない顔をするのさ。(笑)私は高邁なものを知っているといった顔をして、赤富士なんて俗なものは描くな、と怒る画商もいるけど、冗談じゃないんだね。そのくせ、内心ではもうかったと喜んでいるんだからね。素直にいえばいいんですよ。ぼくは芸術っていったら、大衆から隔絶されたものだと考えたくないし、いま一番芸術の悲嘆さは、大衆と隔絶したところだと思うんですよ。もっと大衆と芸術という観念を近づけたい、とまあいろんなことを考えたり、いろんなことをしているけど、もう少し見ていて下さい。やりますから」

『秀作美術』(1972年2月号)より部分抜粋
速水御舟「安田さんの芸術の特色は、あの馥郁たる匂いにあると思う。ああいう芳香を放つ芸術は、現代はもとより古人のうちにも極めてまれであろう」
「画家に限らず、全て何かの発展を期そうとする仕事に携わる者には、過去の歴史に対する十分な認識が必要なのはいうまでもない。逆に、その認識の上に己れのなすべき道を見いだしていくのでなければ真の発展はのぞめない。最新の研究、データが重要なのはいうまでもないが、われわれは過去の人々のなした仕事、そしてそこに看取される思想の中に、時間を経た今日でも常に新しさを失わない問題提起に往々にして出会うのである。本展は、画家という視覚芸術の発展に従事した人々のみを取り上げたが、このささやかな企画が、歴史に何を学ぶかという、この古くて新しい問題を今一度考え直す機会になれば望外のしあわせである」

関根浩子「各説 明治前中期の宝物調査と古画模写事業」(『春草没後80周年記念 天心傘下の巨匠たち ー初期作品を中心としてー』展覧会図録所収、飯田市美術博物館、1991年)
井上正「美術の展観には二つのスタイルがあります。一はいわゆる名品展で、これは作品のもつ力と観者の鑑賞力によって成り立っています。その二は特定の美術史的なテーマにしたがって作品や資料を集めて展示するもので、この方は担当学芸員の研究者としての力量に大きく依存しています」
竹内栖鳳「嘘の配剤を知らない芸術には輝きがない」
奥村土牛「写生とは云っても、私は特に、そのものの気持ちを捉えることに努めている。一つのものを描こうとする時、勿論その形を写すことは定まっているが、その後の写生は気持ちをつかまえるという態度で為さるべきだと考える。私の云う写生は、その意味の、外観の形よりも内部の気持ちを捉えたいということである」

奥村土牛「身辺雑感」(『塔影』12-9所収、
1936年9月)
小林古径「併し奥村君の勉強はただごとではないんだよ。展覧会めあてに絵を描いていたのではない。ある時は一年間写生ばかりやっていた事もあった。若い時からすばらしくうまかったんだよ。僕なんかより遥かにうまい。そのうまさを、完全に立派に生かしたんだね。併し大変だったよ。君ねえ、えかきはあまり幸せでない方が却っていいんだよ。奥村君は立派に切り抜けた」

岡本弥寿子「恩師奥村土牛先生」(『三彩』431号所収、1983年8月)
線の重大性

「線としていいものは、画面に独立して、飛び離れた存在となっているものではないと思う。画面に独立して目立つようなのは、いい線ではないのではあるまいか。何んだかいい絵と称するものの線は、みんなそんな気がする。現われたものの中へ総ての線が溶けこんでいなければならないものではないか。
然しそれは線ばかりではない。色とても同様であって、色も絵具で見えて来てはいけないと同じで、線もそれと同じでなければならぬ。」

小林古径「東洋画の線」『美術新論』八-三所収、1933年3月