「写実とは教わりならうものでしょう。絵の上では自然から色々教わり、それが土台になって工夫されて行くので、精神的とか、感動とかを表すその為めに必要なことと思われます。写生などしなくても、そのものの真が画き出せればその必要は無いでしょう。それは巨匠の技で、矢張り写生して見ると、只見て居た丈けのものよりも他のものが見え、全然気付かなかった形や色が発見され、つまり一層よく見る事になります。之れを表面丈けでなく、奥深く如何に表現して行くかは、人別々の工夫です。線や色の形式を重んじて、要約された絵でも、又宋元の細密に描かれたものにしても、この写実が大切な基本であると思います。」

小林古径「東洋画の写実〈レアルの研究〉」『美術』一〇-二所収、1935年2月
「いい線と悪い線
添わない線ーつまりその点によって分かれる。私は常に線はその内側ー言葉は足りないがーを描かねばならぬと思っている。内側という言葉よりは内に籠っているものを描かねばならぬと言いかえてもいい。だから線は立体的なものも現わせば、平面的なものも現わす、それは双方とも線にとっては真実である。」

小林古径「東洋画の線」『美術新論』八-三所収、1933年3月
「(梶田半古)先生は写生ということを非常に重んぜられて、このことは常に我々にも注意された。そこで我々が先生に物の形などを聞きに行くと、自由に様々の形を描いて示されて、例えば鮒なら鮒の正面から見た処、横から見たところ、背後から見た処という風な具合に、それ等を解剖的にまで教えて下さった。従って我々の描いたものに就ては、細部といえども見逃さず、充分行き届いた注意を与えられた。
それから先生がよく言われたのは画品ということであって、少しでも卑しい点があると酷く先生は嫌われた。写生と画品、それが特に先生の重んぜられたものであった。しかし色ということも非常にやかましく言われた。」

小林古径「弟子の見たる梶田先生〈噫、梶田半古氏逝く〉」『中央美術』三-五所収、1917年5月
「私の思うには、絵巻物は、絵だけでなしに、矢張り昔のように詞書きも添えるのが本当でしょう。併し私等には、絵さえ碌々出来ないのに、書などは到底思いも寄らぬことです。昔のような天才が絵を描いて、それに天才の能書家が詞書を添え、貴重な裂地を用いて立派な巻に仕立てたならば、初めて絵巻物の新芸術が出来上がるでしょう。」

小林古径「作家の感想」『太陽』二三-十二所収、1917年
「古径と土牛の線描の質と情はむろん異うが、どちらも練り鍛えた美しい線描で、牛の複雑な面や量を巧みに線に盛込んでいる。古径の絵には厳粛で倫理性がある。土牛の絵には、清純の中に感覚的な美しさがある。古径の牛は、藤原時代のものでも見るように、どこか淋しみと間の抜(顔のあたり)けたところがあって、それでいて気格が高い。土牛の牛には、近代的な新しさと艶があり、そしてあかるくやわらかな情がある。」

難波専太郎『奥村土牛』(美術探求社、1961年)
速水御舟は小林古径の写生について、「一見無駄を多くしたかに見えるが、凡ての形態を脳裏に収めてそれを濾過し写生された形以外の形を以て創作されている。この無駄こそ写生に於て最も重要な意味を持つものである。」と述べている。

「速水御舟語録」『美術評論』四-三所収、1935年
「だってあたしもう二十八歳だから。精神的な安定が必要な年だから。経済的にも一人で生きていくって無理だから。賢くならなきゃいけない年だから。二十五歳を過ぎてから恋人と別れるのは相当な痛手だから。田舎町に住むまともな二十八歳の女は、結婚して子供の一人でも産んで、郊外の建売住宅に住んで家事と子育てに勤しまなきゃいけないから。」

「How old are you?(あなたいくつ?)」(山内マリコ『あたしたちよくやってる』所収、2021年、幻冬舎)
「果なき心の彷徨――これだ、これを続けてゐるにきまつてゐる。それが一つの問題が終らないうちに他へ移る。いやさうではなしに一つの問題を考へると必然次の考へへ移らねばならなくなる、それが燎原の火の様にひろがつてゆく一方だ。これの連続だ、然しこれも疲れるときが来るのだらう。
おれは今心がかなり楽しい様な工合だからこれがかけるのだが、これも鬼の来ぬ間の洗濯で、あとでこれをかいたことの後悔が来るにきまつてゐるのだが、俺は今何かに甘えてこれをかいてゐるのだ。(中略)この手紙はさばかれるだらうが、さばく奴に権威のある奴はない――かう思つて書きやめる。」

— 梶井基次郎「中谷孝雄宛ての書簡」(大正12年2月10日付)
梶井基次郎「〈記憶を再現する時に如実に感覚の上に再現出来ないこと〉が、過ちを繰り返す原因と分析し、〈人間が登りうるまでの精神的の高嶺に達しえられない最も悲劇的なものは短命だと自分は思ふ〉、〈どうか寿命だけは生き延び度い 短命を考へるとみぢめになつてしまふ〉と語った」
「私は街に出て、とある果物屋へ入つた。そして何も買はずに唯一顆の檸檬を買つた。そしてそれがその日の私の心を慰める悲しい玩具になつたのだつた。……その冷たさを頬におし当て、また爪の痕を入れてしみじみその香を嗅いだりした。……たゞその一顆のレモンが五官に反響する単純な感覚のみが紊れからまつた心の焦燥からの唯一の鎮静剤になつたのだつた。私は傲り驕ぶつて来るのさへ感じた。そしてその末丸善へ入つた。」

— 梶井基次郎「日記 草稿――第三帖 大正12年秋」