「私は街に出て、とある果物屋へ入つた。そして何も買はずに唯一顆の檸檬を買つた。そしてそれがその日の私の心を慰める悲しい玩具になつたのだつた。……その冷たさを頬におし当て、また爪の痕を入れてしみじみその香を嗅いだりした。……たゞその一顆のレモンが五官に反響する単純な感覚のみが紊れからまつた心の焦燥からの唯一の鎮静剤になつたのだつた。私は傲り驕ぶつて来るのさへ感じた。そしてその末丸善へ入つた。」

— 梶井基次郎「日記 草稿――第三帖 大正12年秋」

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