歴史というものは、すでに去ってしまったものを明らかにしようとする行為であるが、いろいろと縦横に論説して、とかく虚像を作り上げてしまう恐れがあるものだ。それはそれとして、大変有意義なことではあっても、そのような行為は、やはり私には、一抹の淋しさ、空しさがぬぐいきれない。
なぜであろう…。
だからここで瞽女の歴史など書こうとは毛頭思わなかった。書いても、それがどれだけ人間の生きるすべての生活の上にプラスになって芽ばえ広がって行くであろうか。やはり観念の遊戯にほかならないのではなかろうか。
私は、観念の遊戯を否定する。真の芸術のすべてには、観念的なものは許されないからである。すなわち、観念には魂も心も存在しないからである。
だから瞽女というものを解明するのではなく、瞽女の声の中に自分を投げ入れるよりほか方法がないと思った。実は私自身も貴方自身も瞽女になることかも知れない。すなわち瞽女を外から嗜好的に眺めて、一たい何んになるのだ。そんなものは、名画、例えばモナリザの前に立ったか弱き鑑賞者にすぎない。鑑賞者は近代文明の生んだ魂の不具者だ。批評する……それも一つの嗜好的遊戯である。
それより事実のモンナリーザ・ジオコンダを自分で描くよりほかないと、私は瞽女さんたちや村びとたちから学んだものがこの書である。
モナリザは不気味なえみを浮かべて笑っている。瞽女さんたちも笑っているのだ。

斎藤真一「はじめに」p2〜3『瞽女=盲目の旅芸人』(1972年、日本放送出版協会)所収

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