備忘録を綴る

三島由紀夫「この十年間に比べると、廿七歳から卅七歳までの十年間には、これといった起伏がない。時間の経ちようも、あとの十年間のほうがはるかに速い。少年老い易く、学成り難し、とはよく言ったものだ。」(三島由紀夫『私の遍歴時代』1964年、講談社)

シャルル・ヴァグネル「過去を復活させることは不毛であり、危険である。しかし、社会の発展においてもっとも重い過ちのひとつは、人間が幸福を自分の内ではなく外に求めている点である」
「工芸美術は生産性もなく、特権階級ならいざ知らず、国民全般の生活には必要性を感じないものである」
「日本は物資生活が豊かになったが、果して賢明に楽しく過ごし得ているか。この重要な転機を双方の心と技術の創意により、切り開いて行く場をつくるための、クラフト展である」(朝日現代クラフト展趣旨、1983年)

イサム・ノグチ「私の作品が何か使い道があるから、芸術ではないというような、美術にたずさわる専門家の非難、中傷、無視というものは、全く意味がない。何が美術かというと、作品に有用性も、意味も、なんにもないものこそ、芸術だという。芸術とは何かということが、わかっていないとしか考えられない」

毎回似たような内容の自分語りをし、前回からちっとも成長することのない自身の内面について吐露したところで、携帯の画面を長時間眺めて眼が乾燥していることに気付いた。そうして眼をぱちくりさせていると、急に視界が暗転した。最近、夜更かしをしない生活を続けていたので、タイマーで消灯することをすっかり忘れてしまっていたが、この部屋にはそんな便利機能がついていたようだ。日付が変わったので自動消灯したことと、こうもあっさり27歳最後の夜が終わってしまったことが重なって、少しだけアンニュイな気分

公私の境界が曖昧になりつつあるこの頃、たまの休みも仕事に纏わることに取り組んでいたら、休んだ気がしなくて週明けから倦怠感に苛まれている。私の体感としては、6月19日から7月8日まで気の休まる間がなく、なんと7月9日の休みすらも仕事に纏わることに取り組む予定になっている。そうすると、7月11日にようやく初めて心の底から何もしない休日≠楽しむことができる。職業的に当然だろうと指摘を受けると反論の余地はないが、図書館にこもって資料を複写をしたり、文献を読むのとは違った疲労が対人関係を伴うと蓄積されていく。趣味を仕事にしているから楽だろうと思われがちだが、プライベートを侵食しすぎると、業務中にあった嫌なことの記憶が私生活に流れ込む有様で、ゆとり世代的な言い訳をすると、何もしていないのに疲れ切ってしまった。だが、その苦労を耐え忍ぶのも7月10日までで、11日からは3連休が待っている。振休とはいえ、3日連続で休めてしまうのである。しかも、翌々週にも3連休が控えており、自己を労わるために用意された休日に不足はない。
それなのに、「本当に休んでもいいのだろうか?」とか「休み明けの業務の蓄積が怖い」などといって休暇中に仕事のことを思い浮かべる私はなんだかんだと社会人になってしまった

起きた瞬間に詳細は忘れてしまったが、気持ちの悪い夢を見た。輪郭だけ覚えているので、記録のために紹介する。何者かに追われていた私は、何処だか分からない場末のスナックから抜け出し、何故か新幹線で高速移動をして西へ西へと逃避行。自由席を選んでしまったせいで、停車駅ごとに珍奇な客と肩を寄せ合うはめに。車窓から流れる景色など目もくれず、刺客として送りこまれた乗車客と舌戦を交わしたり、高速移動する新幹線を止めようと、何故かサッカーボールを電車に向けて蹴ってぶつけてきたり、そんなこんなでカオスになってきたとき、こむら返りで足が攣った痛みによって朝を迎えたのだった。悪夢からは離れられても、脱水とミネラル不足という現実からは解放されず、7月早々ユ〜ウツな気持ちを抱えて仕事へ向かった

「仕事をしていたから」というのは言い訳に過ぎないが、茅の輪くぐりも水無月を食べることもすっかり忘却の彼方だった。新潟に移住してしまうと体験できない風習だと思っていたが、実はどれも上越でやっていると知ったのはつい最近のこと。夏越祓≠ノ限った話ではないが、年々1日を噛み締める余裕がなくなりつつあるのか、年中行事に思いを馳せることが少なくなっている気がする。雨が降らず、36.7℃を記録するなど猛暑日が続き、6月末と思えない気候に夏の水不足を憂いでいるが、そうこうしているうちに関東甲信越地域は梅雨明け宣言を受け、気付けば夏が迫ってきた。明日からはもう7月で、今年も半分以上終わってしまったなどと考えるとき、無意に過ごした日々のことを振り返って溜息をつきたくなる

寂しいという割に、人に合わせて好かれようという気が全くないので、よせばいい不要な干渉をし、逆に人を遠ざけてしまっている。わざと相手が指摘されたくない部分を突いて攻撃したり、不快にさせるような正論をぶつけるなど、相手に嫌悪感を抱かせてばかり。思っていても言わなければいいし、相手に伝わらなければ構わないのに、小学生みたいに正面から体当たりをしてしまうのをやめられない。そのくせ、周囲から人が離れてしまったことに対し、人一倍敏感になっているので救いがない。こういう感情のケリは10代のうちにつけておくべきだったんだと猛省中。深手を負うことで、自身の内面とうまく向き合い、折り合いをつけるしかないんだろうな。でも、それは一朝一夕で出来るようなことじゃないので、長い闘病生活を覚悟しなければならない