備忘録を綴る

敬虔な教徒にはなれそうもないが、照らされた十字架を見上げて祈りを捧げる夜があってもいいと思う
ウクライナについて考えようとしても、カジミール・マレーヴィチの生涯を反芻してしまうので、どうしても美術と結びつける自分がいる。初期の後期印象派的な画風、抽象全盛期、そして晩年は具象に回帰するのだが、スターリン政権下の弾圧を挙げるのは都合が過ぎるか。抽象の極地に至った反動だろう。
彼の代表作に《黒の正方形》(1915年、トレチャコフスキー美術館蔵)という作品がある。画面には何も描き込まれておらず、ただ黒い空間が広がるだけである。最初は、今の世相に似ていると感じていたが、図版を眺めているうちに別の作品を連想した。画面全体を縦横無尽に走る亀裂が共通していて思い出した
対象的なものはそれ自体シュプレマティストには無意味である―意識の表象は無価値なのだ。
感覚とは決定的なものであり……それゆえ芸術は無対象表現に、シュプレマティズムに至るのだ。
芸術は感覚以外なにひとつみとめられない「砂漠」に逢着する
新しい絵画のリアリズムはまさしく絵画のものである。なぜならそこには山のリアリズムも、空のリアリズムも、水のリアリズムもないからである。
これまで、物のリアリズムはあった。しかし、絵画の、色彩の諸単位のリアリズムはなかった。そうした単位は形態にも、色彩にも、相互の位置関係にも左右されないように構成されている。
山口百恵「私には、父はいない。一つの肉体としてのあの人が地球上に存在していたとしても、私はあの人の存在そのものを否定する。」

MichelsenのKANDISを購入してから1年経過したが、未だに使い続けている。開封してから経過した月日を思うとお腹を壊しても文句は言えないのだけど、シロップ漬けにした砂糖だから大丈夫だろうと安易に考えてしまう。
眠気覚ましとしてコーヒーを常飲する日々が続くうちに、紅茶を飲む機会が自然と激減し、KANDISを使う日がほとんど来なかった。そうしているうちに1年が経って、賞味期限が気になるこの頃。久々に紅茶を淹れてみたが、やはりこの輝きが見たかったのだと得心

茜色に染まる夕景もドラマチックで素敵だが、日が沈みかけのときのグラデーションも悪くはない。微妙な変化や移り変わりに心が揺さぶられるため、曖昧で形容しがたい状況というのが好み。雲の流れや空の色調は刻一刻と変化するので、同じ場所を撮っていてもタイミングによって印象が異なる。それこそが私が飽きずに写真を撮り続ける理由なのだろう。
上手い写真というのは私には分からないが、記録したいと感じる風景に日々接しられていることは有難いことだと思う。少し位置をズラすだけで見える世界は様変わりするし、興味は尽きない

水面の反射がみせる景色は、時間や季節とともに移ろいゆくもので、こうした微妙な変化を眺めるのが趣味になっている。同じ場所を画角に収めたつもりでも、実際には微妙に位置が異なっており、切り取られた位置が前回と少し異なるということが多い。大差ないように見える、その少しの変化がもたらす効果を楽しみたいのかもしれない。同じ場所を通り掛かり、似たような写真を2年半ほど撮っているが、今のところはまだ飽きていない

高田城址公園の西堀橋付近を歩くのが日課になっており、毎日似たような構図の写真ばかり撮っている。よく「いつも同じ場所ばかり撮って飽きないんですか」と聞かれるが、同じ場所を撮り続けるからこそ気付く変化がある。定点観測と呼ぶには不規則で徹底していないが、通りがかりの空が綺麗なときは、なるべく写真に収めようと心掛けている